2013年7月24日水曜日

「類化性能」と「別化性能」

日本ではのこぎりを「引いて使う」
海外ではのこぎりを「押して使う」

この一つの道具に対する、使い方で着目する点は、
① 自分を起点にして世界に働きかけ、変化をもたらす方向性なのか、
② 外側から自分の方に引き寄せる求心的な運動によって世界と関係性を築いているのか

という違いである
それは自己と世界(他者)との関係性をいかに築くかという問題であり、自我の形成に決定的な差異を生み出す

また日本後の文章にはよく主語が欠落しているが、これも、みずから、主体を規定せず他者や状況に想定させる事を期待するからである

このことから日本の文化は外部から引き寄せる運動によって少しずつその輪郭を形成していく節があると思われる


日本人の生み出す美についても、そのような傾向が見られる。
「アナロジー」すなわち表面的には異質なもの同士を結びつける能力、日本人はそれに非常に長けている

ある異質な体験に触れたとき、その体験に対して自己との違いを見出して、線引きをする
これは西洋文化の思考方法に多く見られ「別化性能」と呼ぶ

一方、その異質な体験に対して、類似性や共通性を見出し互いの関係性や結びつきを強化しようとし、モノゴトの線引きや分け隔てを設ける事には疎い
これは日本文化の思考方法に多く見られ、「類化性能」と呼ぶ

日本人はこの類化性能の思考によって、異質なものと内側の感情や記憶と照らし合わせ「見立てる」そして新たなイメージを生み出す事に特化している

僕の作品にも「炎天華」という「ニワトリ」と「華道」を類化性能の思考によって。組み合わせ生み出されたモノがある。

また日常の中でも、モノゴトに対する意見が対峙する時、そこに無意識に共通点を見つけ出し、ミックスして、新たなもっとおもしろい考察が生まれないかと思考するクセがある

このように、僕は根っから日本人的な類化性能思考の持ち主のようだ。

この思考方は、使い方を間違える、もしくは度がすぎると、何も生まれない。もしくは幽霊のような存在しか生み出されない。
非常に強いバランス感覚とある瞬間に置ける決定する意思の強さが必要である。

しかし、様々な異質な文化がこの世界には存在し、また新たに生まれている、その一見異質に見える文化やモノゴトを、まるで錬金術のような無限の組み合わせによって、そこには無限の可能性が広がっている。




2013年3月6日水曜日

「不在」の中に存在する「想像性」

現代のテクノロジーはホントに凄い速さで進化している

小さい頃ファミコンの画面の中で見ていた平面的な映像は、今やハイパーリアリティを持った世界を構築し、その中で自由に動き回ることができる

プロジェクターの技術もどんどん進化し、最近では3D投影という、あたかもそこに人がいるような映像を空間に造り出す事まで、できるようになった。

この速さで10年20年とたった先には、いったいどんなテクノロジーが生まれているのだろうか

一方、そんなデジタル、オートマティックな時代に反して、僕はこつこつと時間をかけて手でモノを作っている。

現代のテクノロジーは足し算を繰り返し、隙間を埋め、スピードを上げ、蓄積され完璧なテトリスのように積み上げられた技術だ
それを目の前にすると、アっと驚かされ、そこに作り上げられた世界に見入る事ができる

そこには現実とは別のテクノロジーで埋め尽くされた仮想現実がある


そんなテクノロジーの進化にある現代においても、今だに手によって生み出されたモノを求めようとする自分をはじめ、それを見ようとする人々の求めるものは何なんだろうか?


おそらくそれは、

       「想像力」である

「想像力」は「不在」の中に存在する。

足し算で埋め尽くされた完璧な世界では本来の人間の持つ想像力を発揮する事はできない、いや、する必要がないのだ、向こうからやってくるものにただ身を預ければいい

しかし、足し算と引き算を繰り返し、不在の空間を与えられたモノには、次元を超えて「想像」または「幻想」という無限の宇宙へコネクトできる扉が存在する

何十年、何千年とたとうが、どんなにテクノロジーが進歩しようが、人間は人間である

元来その想像力という神秘な能力を使い、生存してきた人類は、やはりその能力を発揮する事をどこかで望んでいるのではないだろうか

ハイパーテクノロジーで作られたモノは美しいかもしれない、完璧かもしれない
しかし、それは有限である気がする、流行のように、消費され忘れ去られていくだろう

僕は人間の手が生み出すチカラを根拠も無く信じている。
人間の手は凄いんだ。無限の宇宙と繋がれる「扉」を作品というカタチの中に生み出す事ができる神秘的なものだ

何度も何度も足したり引いたりを繰り返し、諦めずに信じる事で有限ではない、無限の幻想の世界を生み出す事ができるのだ

2013年3月4日月曜日

意味の存在する点について

「私は無である、そして私は作動している。アート、広告、商業、あらゆる分野で私は操作的だ。いや操作性そのものだ」

と言いはなち、アメリカのいや全世界のアートシーン、アート市場に強烈な影響を与えたのは、かの有名なアンディウォーホルである

彼の作品は著名人の大量に印刷されたポートレートであったり、日常の中で消費されていくモノを表舞台にひきずりだした作品であったりする



そのイメージの連続性という見せ方によって間違いなくその時代の価値観、モノの見方をがらりと変えた

そしてアートのモノ自体の意味性を消し去り、そのイメージと秩序の書き換えによってデュシャン以降のアートという概念、見方、流れに対し大きな変化を生み出した

このような「「シュミレーションアート」」はとてつもなく大きな流通を生み出し、強い影響力を持った


そしてウォーホルが死に、今現在のアート市場にもこの影響は強く残っている
得にニューヨーク、ロンドン等アートの中心といわれる地において

アートを生業にしようとする時、このようなアートの流通という点に対して無視はできないのかもしれない

しかしながら、その影響は残りながらも、モノ自体の意味性の無さを許容し続けていられる程人間のアートに対する欲望は軽いものではなく、そのモノ自体の意味性はもちろんの事、その周りにうずまく思考、哲学、特異な視点、が共存していないと、最前線では戦えない



もっと知識がいる。

「知らない」から、「いらない」ではなく、知った上でそこから独自の視点、隙間、より良くするための展望を発見し、それをカタチにしていかなければならない

今年中に自分の環境が大きく変わる。

そこで、またゼロになった気持ちで学ぼうと思う。カタチにしていこうと思う

2013年2月22日金曜日

推理彫刻

今少しづつ取り組んでいる「風景を彫刻にする」という試み

しかしこれは広大な大地を相手にしたランドスケープアートのようなプロジェクトではない

僕のやりたいのは、ミニチュワの世界の中に見るような手のひらの中に風景を見る。ような事だ

これは、ただ単に気になる風景をミニチュワとするのではなく

‘地の記憶(歴史)を掘り起こし、そこに新しい意味の世界を付与する‘

そして

‘その世界を通して、世の中の事象について想像をめぐらす‘

それが僕の風景彫刻における意味だ


風景と一言に言っても、様々な風景がある。
自然なのか、あるワンシーンなのか、遠いのか、近いのか、

現実の空間の眼に見える要素はものすごくたくさんある。
おそらく人はその眼に見える要素全てを把握しているわけではない
これは見慣れた自分の部屋であってもそうだ

その一つ一つの要素を分解し、考察する事によって、きっと今まで気づかなかったような事柄が見えてくるはずだ。
そこから要素の選択をし、再構築する。

きっとその風景に隠された。いや見えていなかった「何か」が見えてくるはずだ


こーして文章にまとめてみると、僕の風景彫刻というのはまるで探偵みたいだ

そーいえば中学の頃、道端に落ちているゴミとかを見て、そのささいな情報からそのゴミがその場所にいたるまでを推理?して考えるという一人遊びをずっとしていた

その一人遊びを彫刻という世界の中でやりたいのかもしれない

これはもう「推理彫刻」とでも呼ぶべきだろうか



2013年2月21日木曜日

円空   時代を越えるもの

少し前に親しい友人と会い。あーでもないこーでもないと話していた。
その会話の中で、その友人は

「自分はこの時代に生まれてくるべきではなかった」

なんて事を言った。

僕は少々カチンときて

「何を言ってるんだ!こんな時代もあんな時代も無い!生まれてきたこの時代がお前の時代じゃ!遠い昔のあの感じィーーーとか、もっと未来のこんな感じィーーーとか言ってんじゃないわ!たわけ!

そんな事言うのは、今、自分の目の前にある、やらなあかん事とか、乗り越えなあかん事を見ないふりしてるだけやわボケカス!

何か今の時代と自分の歯車が合ってないと感じるのは自分に何かが足りてないか、世の中を見る視点が偏り過ぎてるだけやわ!

どんな時代も人間なんてそんな変わらん!
メディアが「流行」とか言って変わってるように見せてるだけや

いつの時代も人間が求めている美しいとか嬉しいとか悲しいとかそういう心は一緒やわ!
解ったか!あほんだら!」

なんて勢い余って言ってしまったが、ホントにそう思っている。

「円空」が僕は好きだ。最近も東京国立美術館で展示があって見てきた。
そこではめったに見れない秘仏があってその純粋なカタチに心から美しいと思った

はっきし言って円空さんは彫刻が下手だ。カタチなんてほんとに大した事ないし、眼鼻口なんてお前これ5秒でピっピっピってやっただけやろ。。。裏なんぞ鉈で一割したそのまんまやし。もうちょっと彫ったら?って思う。

だがしかし、僕は円空が好きだ。いやみんな好きだ。
つまりそんなカタチがどーとか眼鼻口がどーとかではないのだ。
円空さんは死ぬまでに12万体の仏を彫ったと言われる。
何故かっていうと人々の祈りのためだ救いのためだ

だから円空仏はみんな笑っている

それが江戸時代から現代まで人々の心を打ち続けている。

そーいう事だ。人々の心に残り、大切に大切にされていくものは時代なんて関係ない
表面上の流行に翻弄されて消費されて忘れ去られていくような生き方をしてはいけない。

まーしかし確かに現代という時代は必要ない情報がいやでも眼に入ってくるし、その情報の渦に簡単に飲み込まれる事もある

だから、そのカオスな中でも自分の大切にしてる気持ち、価値観、美意識を強く持たないとだめだ、というか、いくら多くの情報があっても結局、自分の中に残るのはその意識に通ずるものだと思う


ちなみに円空さんは岐阜の人だ。岐阜の洞戸に円空記念館がある。そして郡上や高山には道を歩けば円空にぶつかると言えるほど円空がある。

僕が木を彫っているのも何かしらの「縁」ならぬ「円」なのかもしれん



2013年2月18日月曜日

ポリリズム

ポリリズム=ポリ(複数)のリズムという意味で違うテンポのリズムが重なっているリズムである
主にアフリカ音楽に見られる、リズムを合わせる事になれている我々にはちょっとずれて聞こえるような音である

しかしながらそのリズムは3重4重と幾重にも重なりとてつもなく複雑な構造を持っている

僕の友人に「ムビラ」という親指ピアノの王様と言われる楽器をやっている人がいる
その楽器には指ではじいて音を出すピアノの部分があり、その周りにビールの栓がたくさんついていて、音をはじくたびにそのビール栓がガシャガシャと鳴り、アフリカの街の雑踏のような。森の音のような不思議な音が出る。
またムビラも合奏が基本としてあり、ここにも一種のポリリズムが用いられたりする。

ムビラの演奏を聴くと不思議な空間に包まれ何だか異空間へワープするような感覚になる
聞いた事が無い人は是非一度は聞いてみてもらいたい音だ
ちなみに僕の友人は以前は「チョコリンガーズ」という3人組だったが、今は「ニューアース」という2人組で京都を拠点に全国各地で活動している。


アフリカの文化は本当に独特の進化を遂げていて非常に興味深い

アフリカ彫刻の立体感というのも変わった構造や形をしている。


アフリカの人々は「神や自然に対する意識」そのものを彫刻のカタチとして変換している、そのため実際の人体や動物の形、プロポーションを意識しているのではない。

このようなカタチをヨーロッパのリアリズムを元にした彫刻観念から見てはいけない、カタチを構成する上での根源が全く違う。

しかしながらそのカタチは純粋な思いから生まれているからか、人間の意識の深いところに突き刺さるものがあり熱のようなチカラ強さを感じる。


またアフリカ彫刻にもポリリズムのような複雑な構造が含まれている。
頭、腕、体、足、それぞれが別個のリズムを持ち、それが全体として一つの音楽を奏でている

この構築のされ方は、西洋彫刻に見られる、全ての部分が、流れるような一体感を持ちハーモニーを奏でる彫刻の構築のされ方とは別個のものだ


カタチの本質というのは、その表面的なあり方ではない

何を思い、何を目指し、何を伝えようとしているのか、、、、、
そこの部分が人の心に伝わる核心を生むのである


2013年2月15日金曜日

荒川修作  天命反転

岐阜の養老というところに「養老天命反転地」という摩訶不思議な公園がある。
僕の住んでるとこから車で1時間ほどのとこである

ここは、建築家、思想化、芸術家。。。etcと色々な呼ばれ方をしている「荒川修作」の作品である

荒川修作は人間の身体の在り方を説き続けた人物である。

養老天命反転地にはほぼ平らな場所が無い。グネグネと曲がりくねった道があったり、迷路のような家があったり天井に椅子や机や鏡が張り付いていたりと、いわゆるマトモな場所は一つも無い。

しかし、これには荒川修作の意図がある。

彼は縄文時代のような人間の在り方に人の身体の本質があると考えていた。
テクノロジーが発達し、仮想現実の中で生活のほとんどができてしまうような現代のあり方によって、元よりあった人間の身体的可能性は虚弱化し続けている。
その腐りきった現代人のあり方を見直すために、生命の方向性を反転させるために、建築という方法を使い、嫌でも身体のあり方に人間の意識を向かわせようとしたのである

また東京の三鷹にも彼の作品がある「三鷹天命反転住宅」である

ここもまた彼による身体のあり方を見直すための装置とも言える建築物である


僕が養老天命反転地へ初めて行ったのは、まだ小学生くらいの時で、もちろん荒川修作の事など知らず、岐阜にヘンテコな公園ができたらしいから行ってみようということで家族で行ったのである。
確かに変な公園で、小さな万里の頂上みたいなのがあったり迷路のような庭があったりと、子供ながらに危ないとこだなーと思いつつもそこそこ楽しんだような気がする。
そして確か、けっこうな筋肉痛になった気がする。。。。

荒川修作は人間の身体のあり方を確実に変えるべきであって、今在る街、道路、その他もろもろの建築物は全て爆破して、新しい身体を活性化させるような建築構造に変え、人間らしい生き方を取り戻すべきだというもの凄い強い意思を持ち自分を信じきっていた。

その信じるチカラは本当に凄いと思う。少々考え方がいきすぎているような気がしないでもないし、彼の本やインタビュー等の言葉を見ると、もう何を言ってるのか意味不明すぎるとこがある。
が、その言葉や単語に捉われずに感覚的にみてると、彼の言う身体の新しいあり方という思想に対して、うなずけるところもある。

また生前の荒川修作のぶっ飛んだ発言は非常に記憶に残る激しさであった。
気になる方はこちらをどうぞhttp://matome.naver.jp/odai/2134369109216045701

岡本太郎のような、ある種、いきすぎた熱量を持って人々に訴えかけるというのは「伝える」という事柄において非常に重要な事であり、またその意思や思いを実現していったという事実において、とても勇気をもらえる人である。

そのような方の作品が僕の生まれ育った岐阜にあるというのは、嬉しい事だ

2013年2月14日木曜日

存在の認識と関係性ーーーヘンリーダーガ

もしこの世界に自分以外誰もいなかったら、何もなかったら、自分は自分の存在を認識する事ができないんじゃあないだろうか。。。

自分の存在というのは関係性によってなりたっていると思う

誰かとはなす。眼を合わせる。触れる。衝突する。分かり合う....

そのような関係の中で自分の存在というのを認識する事ができる


僕は都合上、ほとんど誰とも会わずに、話さずに、一人きりで作品制作に向かう事が多い
一つの場所で朝、昼、晩を幾度となく過ごすと、今日も昨日も無くなっていく、自分の存在というモノはその繰り返しのループの中に溶けて無くなってく。

その反面、生み出される作品の存在が強くなっていく。作品を生み出すその空間には自分はもういないのだ。

あるのは、日に日に存在感を増していく作品達。

さすがに、この状態が2週間なり3週間なり続くとなんというか精神と身体のバランスがおかしくなってくる

それで、場所を変えてみたり、誰かと会ってみたりする。
そして他人という別の存在と相対すると、少しづつ自分の存在が戻ってくる。日常に色がついてくる。

その繰り返しだ。

以前も少し取り上げたがヘンリーダーガという人物の気持ちが僕は少し分かる。
彼は一生、友達を作ることも無く。女性と関係を持つ事も無く。日常の時間の流れに溶けて自分だけの世界に入り込んで、その世界でずっと生き、15000ページにおよぶ物語を書き、そして死んでいった。

彼は実は幸福だったんじゃないだろうか




彼の物語の中で現実世界のなによりも存在感を持った、不思議な仲間達の中でその世界を構築する者として存在し続けた

結局彼が死んでから全ての作品が発見され、今現代で注目されている。。。


僕は確実に彼のようには生きれないし、その生き方を幸福だとも思えない。
がしかし、モノ造りを志すモノ、自分の世界の中で何かを構築しようとする者にとっては彼の在り方というのは繋がるところ、解るとこが必ずあると思う

セレンディピティ

ある瞬間、何かをひらめいたり、ずーーーっと欲していたものがある日突然現れる。というような事がある。この現象をセレンディピティというらしい

例えばあるテーマについて、バッチシくるようなアイデアを探しているとする、
僕らは生きてる中で膨大な情報を得る。その膨大さにほとんどは頭の奥底の引き出しにしまわれていて、普段は出てこない、しかしある目的に対して求め続けていると、ある時その引き出しからバッチシの答えが見つかる。

・これは内側からのセレンディピティ。

またそのアイデアが思い着かなくて、ふらふらと散歩をして、ふとした瞬間にある風景の中にその答えを見つける。

・これは外側からのセレンディピティ。

しかしその答えを見つけるのには、「気づく」というのが大事
ぼーーっとしているとすぐ目の前に現れている答えやアイデアに気づかないで通りすぎてしまう・・

今、自分が求めているもの。探しているもの。それに対して意識を持ってアンテナを張り続けている事が大切なのだ

今、自分はどこにいて、何をしようとしていて、どこへ行きたくて、どうしたいのか。。
それを考え続ける事。求め続ける事。そしてとりあえず何か行動を起こしてみる事。

道が無いなんて事は無い。何にも無いなんて事も無い。

それは気づいてないだけ。見えてないだけ。

空間の中のパズルのピース

僕の家の近くには長良川という美しい川が流れていて、その河原に石を拾いに行く事がある。
その河原には数え切れない程の小石があって、そこから自分がおもしろい!と思う石を探すのだ。

僕にとっては宝探しみたいな感覚でとても楽しいんだけど、周りから見たらどうなんだろう?
ただの変な人と見えるのかもしれない。笑

これでもない、あれでもないと探していると、圧倒的な存在感というか何とも言えない良いカタチをした石に出会う事がある。

この感覚というのは何だろう?
こんなにもたくさんのカタチがあるのにその中で光ってみえる良いカタチというのは何だろうか?
。。。

こんな風に考えてみた。

僕らのいるこの空間には実は眼には見えないパズルのピースのような穴が空いていて、そのピースのカタチと一致した時、そのモノに対して美しい!おもしろい!という感情が生まれるのだ。

カタチを求めて生きてる人はそのピースに合うカタチを無意識のうちに探してるのだ
。。。


そしてほとんど誰が見ても良いカタチと思えるモノがこの世には存在する


楽茶碗。楽長次郎作の黒楽茶碗。写真では伝わらないかもしれないが、本物を眼の前にすると、その茶碗のカタチ、内側、色、たたずまい、すべてに宇宙を感じる。
楽茶碗は手日練という轆轤を使わず、手のひらの中で茶碗のカタチを作っていく。

ばっちし空間のパズルのピースにはまった、いーーーーーいカタチである

そして不思議な事にこのカタチは万人に伝わる
いや少なくとも日本人の感性には、とりわけモノ造りを好む者には電撃のように伝わる。

自分も彫刻をしながら良いカタチを探すのだが、その良いカタチが生まれる瞬間というのは本当にふいに訪れる。その瞬間というのは何とも言い表しがたく。だから空間のパズルのピースにはまったんだ!と言うのが一番しっくりくるような気がする。

しかし楽茶碗のような「茶碗」なのに茶碗ではない宇宙のような感覚、茶碗を越えた「何か」を感じてしまうカタチというのは本当に不思議で魅力的だ。



2013年2月13日水曜日

オリジナリティではない

オリジナリティという事にとらわれてはいけない。これは誰もやってない。なんて事は無い。きっと誰かがやっている。

そんな事よりも自分を始め、見てくれる人に感動を生む事が大事だ

言葉やジャンルではない。心だ

2013年2月12日火曜日

言語以前

現代人の感覚は絵画的、装飾的になってきているような気がする。あと自己世界没入的。
おそらく自分もそうなのではないかと思う。

彫刻としての理念や哲学を学んで理解するのはおもしろいし、発見もある。
しかしいざ、自分で作品を作るとなった時、そのような彫刻芸術理論よりも、視覚性、装飾性、またカタチからの意味性、等のほうが強い。

それはインターネット、テレビ、アニメ、漫画など日本の現代人の生活の廻りにあふれている事象の関係なのではないかと思う。
僕もまたそのような文化の中で育っているし生活している。

それは良いとか悪いとかではなく、事実なのだ。経験なのだ

大事なのはどんな方向からどんな場所から出てきたものでも、それを中途半端ではなく、「いききる事」であろう
いききってある種の境界を越えたものは、ジャンルを越え、言語ではない心に響くものへと昇華する

頭の中をあまりに多くの言語で埋め尽くすと、心にある純粋な気持ちが薄れてしまう。

脳科学者が言語は脳の中の「ある感覚」を占領して、それ以前にあった、ある能力を打ち消してしまった的な事を言っていたが、そうかもしれないと思う事がモノ造りをしているとある

直感、シンパシーといったような感覚はその言語以前の能力だ

かといって言語の重要さはアート発信の場においても、普段のコミニケーションにおいてもとても大きい。

バランスが大事なのであろう。そのバランスは経験値をつみ学び挑戦しつづける事でしか克服できん。

基点のあり方

「私」というものを基点としてすべて糸があって、いろんなモノゴトにピン留めしていると、そこから生まれてくる発想はそこからしか距離が測れないしそこからしか発信ができない、そのようなモノはおもしろくない。つまらない。

あるテーマを前にした時、「私」という基点「他者」の基点、「社会」の基点、その他様々な基点からの見え方捉え方を1度は見解すべきだ。

その見解を通したものは深みを増し、自分も鑑賞者も引き込まれていくような世界が生まれてくる

通り一辺倒ではだめだ

想像力がとても大事。


2013年2月11日月曜日

配置の構成による彫刻

イギリスの作家リチャードロングの作品にはモノ派的な観点を見る事ができる


素材そのもののあり方を生かし、その「配置」という点において素材そのもので空間を切り刻むという思考の元に作品を構成している


彼の作品の在り方はストーンヘンジからイマジネーションを得ているのかもしれない

僕は素材を切り刻みカタチを施す事によって作品を成り立たせようとするが、彼のような素材そのものによって空間を切り刻むというような視点の倒置には非常に興味深いものがある

同じような素材の特性を生かしその配置、構成によって空間にカタチに刻む作家として
李禹煥がいる、彼は主に鉄板と石を素材に用いて作品を構成している。

直島にある李禹煥美術館へ2年前に行ったが、とても素晴らしい美術館であった
それまでモノ派という考え方にはあまり関心がなかったが、その作品のあり方に素材そのものの美しさ、というものに眼が向くようになった。

ストーンヘンジ

彫刻を成す要素に、
カタチとしての彫刻(form)
構造としての彫刻(structure)
場所としての彫刻(place)
がある。立体という重力を相手に美としてモノを存在させようとした時には避けては通れない事柄である

このような観点からイギリスのストーンヘンジを見ると、それはすでに彫刻としての要素を合わせ持っており、ストーンヘンジを眼の前にした時に「認識と知覚のギャップを体験するとこから来る感動」が起こる


また、この遺跡には、かくある神話的なイメージが確実にあり、眼の前にした時に起きるイマジネーションの発生が見られる

このような事柄こそ、アートの本質的な部分により近しいものがあるのではないかと僕は思う

しかしながら、このような遺跡に見られる感動は、とてつもなく長い時間によって作り上げられたストーリーやイメージの構築があるからなわけで、容易にできる事ではない

もし僕がデロリアン(タイムマシン)を持っていたらば、このような彫刻的な美を含むモノを世界のあちこちに残しまくりたいものだ


2013年2月10日日曜日

物質について

物質に対しての意識のあり方は、彫刻を形成する上で非常に重要な事柄である

ある素材を作品の一部として用いる場合、その素材の持つ意味、イメージ、特性をふまえた上で作られたモノはひときわ別の存在感を持つであろう

1960年代後半活躍したドイツの作家ヨーゼフボイスは作品の素材としてフェルトと脂肪を用いた、フェルトも脂肪もその不定形な柔らかさが生命を暗示し、また生命を維持するのに必要な熱を保持したりもたらしてくれる物質である。
このような意味をふまえて作られ提示したものから彼のメッセージと強い意志を感じる


素材の選択、作品へのアプローチの仕方、その点において僕はまだまだ未熟だ。
今までやってきた彫刻のフォルム、イメージ、構造、配置、色彩、を生かしつつ、更に深い作品へと移行するためには、素材への探求、構築の方法、またその作品におけるメッセージ、思考、哲学を深める必要がある









ヤニスクネリス。。。アルテポーヴェラ。。

アルテポーヴェラという1960年代後半のイタリアで前衛的芸術とされた団体の中に「ヤニスクネリス」という作家がいる。
彼の作品の中に「馬」という画廊の中に12頭の生きた馬を繋いだ作品がある

アートという概念を追求していくと、このような作品が生まれてくるという点においては、おもしろいなと思うし、もうこれは完全にやり過ぎてる感がありすぎて何というかぶっとんでいる。

が、しかし僕はこのようなアートのためのアートはあまりやる気にならない。

だがしかし、こーしてブログに記録として書いてしまうくらいのある種の衝撃がこの作品にはある気がする。。。

アートという文化は人間が生み出したまことに奇妙奇天烈な文化だ

アートという大きな大樹からは様々な方向に向かって枝が伸びていて、このクネリスの活動もその多くの枝のうちの1本なのだろう。

この大樹は人間がこの世界にいるかぎりどこまでも伸びていくのだろうが、真に光り輝く太陽に向かうのはどの枝なのだろうか・・・
また地底深く闇の奥底へと伸びていく根はどこまでいくのだろうか。。。。

僕はどんな枝もしくは根になっていくのだろうか。。。

2013年2月8日金曜日

J R

JRというアーティストがいる。電車ではない。

僕は彼を尊敬している。僕には到底できない活動で、かっこいい。。

JRはストリートから生まれたアーティストで、イリーガル、リーガル問わず壁に巨大な写真を貼り、その写真によって、その街に人々に強いメッセージを投げかける。
国際問題、人種問題、、、社会の中に溢れ帰る矛盾と混沌に対して、真実は何なのか??本当に大事な事は何なのか??

彼の作品、活動を見ると深く考えさせられる。
そしてアートには世界を変えるチカラがあるんだと勇気をもらえる

モノ造りをしていると、その奥深さ、難しさ、楽しさに翻弄されて、今現在、世界で起きてる問題、社会のモノゴトに眼が向けられなくなる事がある。
でも、彼のダイレクトなストレートな表現を見ると、ああああ、僕は何をチマチマとやってるんだろう。。
なんて思ったりする

でも僕には僕のやり方、彼には彼のやり方。そういう事

アートにはとてつもない可能性がある。どんなやり方でもいい、多くの人達でも、目の前のった一人でも、伝える、感じさせる事ができたならば、それは素晴らしい事だ






2013年2月7日木曜日

,ジョセフ コーネル

ジョゼフ コーネルという1930年から66年頃までアメリカはニューヨークの街でアーティストとして活躍した人物がいる

彼の作品は箱の中に古道具屋などで見つけてきたモノを様々な組み合わせで入れ、彼の哲学や感覚を表している

「箱」という区切られた空間の中にコーネルがいなければ出会わなかったであろうモノ達を並べる。
レディメイドとも言えるこの手法によって生み出された作品からは、ある種、祈りのような宗教的な感覚を感じる。

写真、ボール、リング、鉄の棒、etc....
それぞれに含まれる意味や存在価値、それらを合わせる事によってまた違う意味や哲学を生む事ができる。

ジョセフコーネルは「10セントショップの錬金術師」と呼ばれたが、別々の物と物を意味と意味を組み合わせる「哲学、思想の錬金術師」とも言えるのではないだろうか。

内側の宇宙

作り手の提示したイメージと、見る者の持つイメージが組みあわさった時に第三のイメージが生まれる。そのイメージは呪術的な神秘的なチカラを持つ事がある。

芸術とは何かを生み出す事で、何者かになろうとし、又、現実世界とは違う何処かに行こうとする意思の表れである

その意思が他者とのコンタクトを持った時、イメージという神秘的とも言える宇宙が頭の中に広がり始める

ひきこもりの王様ヘンリーダーガは一生の時間の多くを部屋の中で過ごし彼だけの世界を作り上げその世界の中で生きる事を求め続けた。

彼はある日、自分の内側に生まれた宇宙の中に引き込まれ魅了され、そこから帰ってくる事ができなかったんだろう
イメージの魔力は人の行く末を変えてしまう

僕もそのチカラに魅了され、自分の中の宇宙を旅する事に魅了された人間だ

でも僕は幸か不幸か戻ってこれる
行ったり来たりを繰り返し、その変化を楽しみ、時にその変化のジレンマに苦しむ

それでも、造り続ける事でしか前に進めないのだ




夢と幻の交換場

ミニチュアは哲学をするのにはもってこいの題材になりうる

そこには無限の想像、妄想を繰り広げることできる

子供はその自分だけの世界を容易にいたるところにつくりだす

ジャコメッティの「午前4時の宮殿」という彫刻、何本かの棒を使いすきまだらけの骨組みを組んだだけの作品で、神秘的なタイトルがそれを心にとり憑く忘れがたいものにしている。
これは自分が恋している女性と一緒に住むための夢の家だと彼は言った。

これは子供なら理解できる夢だ。その夢のなかで、モノは名前を変えられ、想像の生を付与される。小石が人間になる。たがいに寄りかかった2本の棒切れが家になる。その世界の中で、人は別人になるゲームを演じる。

僕が作品を通してやりたい事はこんなような事を多く含んでいるかもしれない。

人を夢想に運ぶ乗り物を、どうやって造り出すか。見る者の想像力を富ませ、生涯にわたって伴侶となるようなモノをいかにして生み出すか。。。。。


2013年2月5日火曜日

前に進んだり後ろに下がってみたり右見たり左見たり

岐阜に戻ってきて、また黙々と作品造りの始まりです。

最近は、とあるワンシーンや日常の中の何気ない風景に興味があって、その瞬間の感覚を彫刻として残せないかという試みをしてます。

この試みは今までやってきた1つのモノの中に色んなものを詰め込んで、出す!
というのとは、ちょと違くて、まずフィールドを造り、その小さな世界の中にイメージが生まれる情景をモノとモノの配置によて作り出す。というような作業。

大きな塊の存在感というのもチカラ強くて好きなんだけど、今やってるちょっとした要素の向きだとか距離だとかで、そこにものすごく微妙な感覚を生み出すような感じがとても心惹かれます。

未開の地へ踏み込んだ感じがいっぱいあって、探り探りだけど不安とワクワクがあり良いモノが生まれそうな予感がある


何を作るか?というwhat。。どのように作るか?というhow。。

この2つの作品へのアプローチの違いはアートという歴史の中で生まれてきたアーティストならばおそらく多くの人が気にしてしまうポイントだと思う。
でも、それと同時にもっと自分の心の奥底の声に耳を傾けて、心から造りたいもの、表現したい感覚を掴んで離さない事が大事だと思います。

今はインターネットがあって情報がホントにたくさんたくさん入ってくる、これはとても便利な事だけども、あんまりあれこれ情報が入ってくると、自分は何を見たいのか?何をしたいのか?がよく分からなくなってくる。
その度に頭の中を整理して、モヤモヤしてる事を言葉に置き換えたり人に話したりして確認する。

そーやって前に進んだり後ろに下がってみたり右見たり左見たりして、でも全部と繋がっているような感覚のあるトコロを目指して僕は今日も生きてます

2013年1月22日火曜日

おひさしぶりです

もうほったらかしにしすぎて、ログインのパスすらも忘れかけてたこのブログを再開します
これからは頻繁に書くのである(多分。。。)

数日前から東京に来ていて、今日はメインの用事である文化庁海外派遣の2次面接へ行ってきました。
1ヶ月程前に1次通過のお知らせをいただいて、まーそっから緊張と不安とで、面接が夢にまででてくる始末でした。
これまで、きっちりした場所できっちりした格好して、ガチのお話を面接というカタチでした事が無い私は、制作の手も止めて、イメージトレーニングの毎日。。。
しかし、今回のような機会はホントにありがたく、今現在の自分、派遣先に行ってからの未来の自分に対して自分の奥底にある思いや、原点を深く考えるとても良いきっかけでもありました。

表現をしながら生きるというのは、現実の世界で起きてるモノゴトにアンテナを張りながら、いつも自分の奥の方にあるものを掘り起こし、考え、そしてそれをカタチにするというプロセスがとても大事だと思います。

アーティストというのは、顔の代わりに鏡を持ってる人なんじゃないかと思います。どこまでいっても自分は自分でしかないんだけど、共有しているこの地球の中で、国や人種を問わず共感できるものは必ずある。そんな感覚をカタチにできたら素敵な事だと思います。

僕の作品は誰かの「鏡。」
それを見てくれた人達の目に映るモノは、その鑑賞者自身の生きている中で感じる思いであったり風景だったり。カタチの向こう側に「何か」を感じてしまう。そんな作品を生み出していきたいのです。