2013年2月12日火曜日

言語以前

現代人の感覚は絵画的、装飾的になってきているような気がする。あと自己世界没入的。
おそらく自分もそうなのではないかと思う。

彫刻としての理念や哲学を学んで理解するのはおもしろいし、発見もある。
しかしいざ、自分で作品を作るとなった時、そのような彫刻芸術理論よりも、視覚性、装飾性、またカタチからの意味性、等のほうが強い。

それはインターネット、テレビ、アニメ、漫画など日本の現代人の生活の廻りにあふれている事象の関係なのではないかと思う。
僕もまたそのような文化の中で育っているし生活している。

それは良いとか悪いとかではなく、事実なのだ。経験なのだ

大事なのはどんな方向からどんな場所から出てきたものでも、それを中途半端ではなく、「いききる事」であろう
いききってある種の境界を越えたものは、ジャンルを越え、言語ではない心に響くものへと昇華する

頭の中をあまりに多くの言語で埋め尽くすと、心にある純粋な気持ちが薄れてしまう。

脳科学者が言語は脳の中の「ある感覚」を占領して、それ以前にあった、ある能力を打ち消してしまった的な事を言っていたが、そうかもしれないと思う事がモノ造りをしているとある

直感、シンパシーといったような感覚はその言語以前の能力だ

かといって言語の重要さはアート発信の場においても、普段のコミニケーションにおいてもとても大きい。

バランスが大事なのであろう。そのバランスは経験値をつみ学び挑戦しつづける事でしか克服できん。

基点のあり方

「私」というものを基点としてすべて糸があって、いろんなモノゴトにピン留めしていると、そこから生まれてくる発想はそこからしか距離が測れないしそこからしか発信ができない、そのようなモノはおもしろくない。つまらない。

あるテーマを前にした時、「私」という基点「他者」の基点、「社会」の基点、その他様々な基点からの見え方捉え方を1度は見解すべきだ。

その見解を通したものは深みを増し、自分も鑑賞者も引き込まれていくような世界が生まれてくる

通り一辺倒ではだめだ

想像力がとても大事。


2013年2月11日月曜日

配置の構成による彫刻

イギリスの作家リチャードロングの作品にはモノ派的な観点を見る事ができる


素材そのもののあり方を生かし、その「配置」という点において素材そのもので空間を切り刻むという思考の元に作品を構成している


彼の作品の在り方はストーンヘンジからイマジネーションを得ているのかもしれない

僕は素材を切り刻みカタチを施す事によって作品を成り立たせようとするが、彼のような素材そのものによって空間を切り刻むというような視点の倒置には非常に興味深いものがある

同じような素材の特性を生かしその配置、構成によって空間にカタチに刻む作家として
李禹煥がいる、彼は主に鉄板と石を素材に用いて作品を構成している。

直島にある李禹煥美術館へ2年前に行ったが、とても素晴らしい美術館であった
それまでモノ派という考え方にはあまり関心がなかったが、その作品のあり方に素材そのものの美しさ、というものに眼が向くようになった。

ストーンヘンジ

彫刻を成す要素に、
カタチとしての彫刻(form)
構造としての彫刻(structure)
場所としての彫刻(place)
がある。立体という重力を相手に美としてモノを存在させようとした時には避けては通れない事柄である

このような観点からイギリスのストーンヘンジを見ると、それはすでに彫刻としての要素を合わせ持っており、ストーンヘンジを眼の前にした時に「認識と知覚のギャップを体験するとこから来る感動」が起こる


また、この遺跡には、かくある神話的なイメージが確実にあり、眼の前にした時に起きるイマジネーションの発生が見られる

このような事柄こそ、アートの本質的な部分により近しいものがあるのではないかと僕は思う

しかしながら、このような遺跡に見られる感動は、とてつもなく長い時間によって作り上げられたストーリーやイメージの構築があるからなわけで、容易にできる事ではない

もし僕がデロリアン(タイムマシン)を持っていたらば、このような彫刻的な美を含むモノを世界のあちこちに残しまくりたいものだ


2013年2月10日日曜日

物質について

物質に対しての意識のあり方は、彫刻を形成する上で非常に重要な事柄である

ある素材を作品の一部として用いる場合、その素材の持つ意味、イメージ、特性をふまえた上で作られたモノはひときわ別の存在感を持つであろう

1960年代後半活躍したドイツの作家ヨーゼフボイスは作品の素材としてフェルトと脂肪を用いた、フェルトも脂肪もその不定形な柔らかさが生命を暗示し、また生命を維持するのに必要な熱を保持したりもたらしてくれる物質である。
このような意味をふまえて作られ提示したものから彼のメッセージと強い意志を感じる


素材の選択、作品へのアプローチの仕方、その点において僕はまだまだ未熟だ。
今までやってきた彫刻のフォルム、イメージ、構造、配置、色彩、を生かしつつ、更に深い作品へと移行するためには、素材への探求、構築の方法、またその作品におけるメッセージ、思考、哲学を深める必要がある









ヤニスクネリス。。。アルテポーヴェラ。。

アルテポーヴェラという1960年代後半のイタリアで前衛的芸術とされた団体の中に「ヤニスクネリス」という作家がいる。
彼の作品の中に「馬」という画廊の中に12頭の生きた馬を繋いだ作品がある

アートという概念を追求していくと、このような作品が生まれてくるという点においては、おもしろいなと思うし、もうこれは完全にやり過ぎてる感がありすぎて何というかぶっとんでいる。

が、しかし僕はこのようなアートのためのアートはあまりやる気にならない。

だがしかし、こーしてブログに記録として書いてしまうくらいのある種の衝撃がこの作品にはある気がする。。。

アートという文化は人間が生み出したまことに奇妙奇天烈な文化だ

アートという大きな大樹からは様々な方向に向かって枝が伸びていて、このクネリスの活動もその多くの枝のうちの1本なのだろう。

この大樹は人間がこの世界にいるかぎりどこまでも伸びていくのだろうが、真に光り輝く太陽に向かうのはどの枝なのだろうか・・・
また地底深く闇の奥底へと伸びていく根はどこまでいくのだろうか。。。。

僕はどんな枝もしくは根になっていくのだろうか。。。

2013年2月8日金曜日

J R

JRというアーティストがいる。電車ではない。

僕は彼を尊敬している。僕には到底できない活動で、かっこいい。。

JRはストリートから生まれたアーティストで、イリーガル、リーガル問わず壁に巨大な写真を貼り、その写真によって、その街に人々に強いメッセージを投げかける。
国際問題、人種問題、、、社会の中に溢れ帰る矛盾と混沌に対して、真実は何なのか??本当に大事な事は何なのか??

彼の作品、活動を見ると深く考えさせられる。
そしてアートには世界を変えるチカラがあるんだと勇気をもらえる

モノ造りをしていると、その奥深さ、難しさ、楽しさに翻弄されて、今現在、世界で起きてる問題、社会のモノゴトに眼が向けられなくなる事がある。
でも、彼のダイレクトなストレートな表現を見ると、ああああ、僕は何をチマチマとやってるんだろう。。
なんて思ったりする

でも僕には僕のやり方、彼には彼のやり方。そういう事

アートにはとてつもない可能性がある。どんなやり方でもいい、多くの人達でも、目の前のった一人でも、伝える、感じさせる事ができたならば、それは素晴らしい事だ