2013年2月10日日曜日

ヤニスクネリス。。。アルテポーヴェラ。。

アルテポーヴェラという1960年代後半のイタリアで前衛的芸術とされた団体の中に「ヤニスクネリス」という作家がいる。
彼の作品の中に「馬」という画廊の中に12頭の生きた馬を繋いだ作品がある

アートという概念を追求していくと、このような作品が生まれてくるという点においては、おもしろいなと思うし、もうこれは完全にやり過ぎてる感がありすぎて何というかぶっとんでいる。

が、しかし僕はこのようなアートのためのアートはあまりやる気にならない。

だがしかし、こーしてブログに記録として書いてしまうくらいのある種の衝撃がこの作品にはある気がする。。。

アートという文化は人間が生み出したまことに奇妙奇天烈な文化だ

アートという大きな大樹からは様々な方向に向かって枝が伸びていて、このクネリスの活動もその多くの枝のうちの1本なのだろう。

この大樹は人間がこの世界にいるかぎりどこまでも伸びていくのだろうが、真に光り輝く太陽に向かうのはどの枝なのだろうか・・・
また地底深く闇の奥底へと伸びていく根はどこまでいくのだろうか。。。。

僕はどんな枝もしくは根になっていくのだろうか。。。

2013年2月8日金曜日

J R

JRというアーティストがいる。電車ではない。

僕は彼を尊敬している。僕には到底できない活動で、かっこいい。。

JRはストリートから生まれたアーティストで、イリーガル、リーガル問わず壁に巨大な写真を貼り、その写真によって、その街に人々に強いメッセージを投げかける。
国際問題、人種問題、、、社会の中に溢れ帰る矛盾と混沌に対して、真実は何なのか??本当に大事な事は何なのか??

彼の作品、活動を見ると深く考えさせられる。
そしてアートには世界を変えるチカラがあるんだと勇気をもらえる

モノ造りをしていると、その奥深さ、難しさ、楽しさに翻弄されて、今現在、世界で起きてる問題、社会のモノゴトに眼が向けられなくなる事がある。
でも、彼のダイレクトなストレートな表現を見ると、ああああ、僕は何をチマチマとやってるんだろう。。
なんて思ったりする

でも僕には僕のやり方、彼には彼のやり方。そういう事

アートにはとてつもない可能性がある。どんなやり方でもいい、多くの人達でも、目の前のった一人でも、伝える、感じさせる事ができたならば、それは素晴らしい事だ






2013年2月7日木曜日

,ジョセフ コーネル

ジョゼフ コーネルという1930年から66年頃までアメリカはニューヨークの街でアーティストとして活躍した人物がいる

彼の作品は箱の中に古道具屋などで見つけてきたモノを様々な組み合わせで入れ、彼の哲学や感覚を表している

「箱」という区切られた空間の中にコーネルがいなければ出会わなかったであろうモノ達を並べる。
レディメイドとも言えるこの手法によって生み出された作品からは、ある種、祈りのような宗教的な感覚を感じる。

写真、ボール、リング、鉄の棒、etc....
それぞれに含まれる意味や存在価値、それらを合わせる事によってまた違う意味や哲学を生む事ができる。

ジョセフコーネルは「10セントショップの錬金術師」と呼ばれたが、別々の物と物を意味と意味を組み合わせる「哲学、思想の錬金術師」とも言えるのではないだろうか。

内側の宇宙

作り手の提示したイメージと、見る者の持つイメージが組みあわさった時に第三のイメージが生まれる。そのイメージは呪術的な神秘的なチカラを持つ事がある。

芸術とは何かを生み出す事で、何者かになろうとし、又、現実世界とは違う何処かに行こうとする意思の表れである

その意思が他者とのコンタクトを持った時、イメージという神秘的とも言える宇宙が頭の中に広がり始める

ひきこもりの王様ヘンリーダーガは一生の時間の多くを部屋の中で過ごし彼だけの世界を作り上げその世界の中で生きる事を求め続けた。

彼はある日、自分の内側に生まれた宇宙の中に引き込まれ魅了され、そこから帰ってくる事ができなかったんだろう
イメージの魔力は人の行く末を変えてしまう

僕もそのチカラに魅了され、自分の中の宇宙を旅する事に魅了された人間だ

でも僕は幸か不幸か戻ってこれる
行ったり来たりを繰り返し、その変化を楽しみ、時にその変化のジレンマに苦しむ

それでも、造り続ける事でしか前に進めないのだ




夢と幻の交換場

ミニチュアは哲学をするのにはもってこいの題材になりうる

そこには無限の想像、妄想を繰り広げることできる

子供はその自分だけの世界を容易にいたるところにつくりだす

ジャコメッティの「午前4時の宮殿」という彫刻、何本かの棒を使いすきまだらけの骨組みを組んだだけの作品で、神秘的なタイトルがそれを心にとり憑く忘れがたいものにしている。
これは自分が恋している女性と一緒に住むための夢の家だと彼は言った。

これは子供なら理解できる夢だ。その夢のなかで、モノは名前を変えられ、想像の生を付与される。小石が人間になる。たがいに寄りかかった2本の棒切れが家になる。その世界の中で、人は別人になるゲームを演じる。

僕が作品を通してやりたい事はこんなような事を多く含んでいるかもしれない。

人を夢想に運ぶ乗り物を、どうやって造り出すか。見る者の想像力を富ませ、生涯にわたって伴侶となるようなモノをいかにして生み出すか。。。。。


2013年2月5日火曜日

前に進んだり後ろに下がってみたり右見たり左見たり

岐阜に戻ってきて、また黙々と作品造りの始まりです。

最近は、とあるワンシーンや日常の中の何気ない風景に興味があって、その瞬間の感覚を彫刻として残せないかという試みをしてます。

この試みは今までやってきた1つのモノの中に色んなものを詰め込んで、出す!
というのとは、ちょと違くて、まずフィールドを造り、その小さな世界の中にイメージが生まれる情景をモノとモノの配置によて作り出す。というような作業。

大きな塊の存在感というのもチカラ強くて好きなんだけど、今やってるちょっとした要素の向きだとか距離だとかで、そこにものすごく微妙な感覚を生み出すような感じがとても心惹かれます。

未開の地へ踏み込んだ感じがいっぱいあって、探り探りだけど不安とワクワクがあり良いモノが生まれそうな予感がある


何を作るか?というwhat。。どのように作るか?というhow。。

この2つの作品へのアプローチの違いはアートという歴史の中で生まれてきたアーティストならばおそらく多くの人が気にしてしまうポイントだと思う。
でも、それと同時にもっと自分の心の奥底の声に耳を傾けて、心から造りたいもの、表現したい感覚を掴んで離さない事が大事だと思います。

今はインターネットがあって情報がホントにたくさんたくさん入ってくる、これはとても便利な事だけども、あんまりあれこれ情報が入ってくると、自分は何を見たいのか?何をしたいのか?がよく分からなくなってくる。
その度に頭の中を整理して、モヤモヤしてる事を言葉に置き換えたり人に話したりして確認する。

そーやって前に進んだり後ろに下がってみたり右見たり左見たりして、でも全部と繋がっているような感覚のあるトコロを目指して僕は今日も生きてます

2013年1月22日火曜日

おひさしぶりです

もうほったらかしにしすぎて、ログインのパスすらも忘れかけてたこのブログを再開します
これからは頻繁に書くのである(多分。。。)

数日前から東京に来ていて、今日はメインの用事である文化庁海外派遣の2次面接へ行ってきました。
1ヶ月程前に1次通過のお知らせをいただいて、まーそっから緊張と不安とで、面接が夢にまででてくる始末でした。
これまで、きっちりした場所できっちりした格好して、ガチのお話を面接というカタチでした事が無い私は、制作の手も止めて、イメージトレーニングの毎日。。。
しかし、今回のような機会はホントにありがたく、今現在の自分、派遣先に行ってからの未来の自分に対して自分の奥底にある思いや、原点を深く考えるとても良いきっかけでもありました。

表現をしながら生きるというのは、現実の世界で起きてるモノゴトにアンテナを張りながら、いつも自分の奥の方にあるものを掘り起こし、考え、そしてそれをカタチにするというプロセスがとても大事だと思います。

アーティストというのは、顔の代わりに鏡を持ってる人なんじゃないかと思います。どこまでいっても自分は自分でしかないんだけど、共有しているこの地球の中で、国や人種を問わず共感できるものは必ずある。そんな感覚をカタチにできたら素敵な事だと思います。

僕の作品は誰かの「鏡。」
それを見てくれた人達の目に映るモノは、その鑑賞者自身の生きている中で感じる思いであったり風景だったり。カタチの向こう側に「何か」を感じてしまう。そんな作品を生み出していきたいのです。