2013年2月22日金曜日

推理彫刻

今少しづつ取り組んでいる「風景を彫刻にする」という試み

しかしこれは広大な大地を相手にしたランドスケープアートのようなプロジェクトではない

僕のやりたいのは、ミニチュワの世界の中に見るような手のひらの中に風景を見る。ような事だ

これは、ただ単に気になる風景をミニチュワとするのではなく

‘地の記憶(歴史)を掘り起こし、そこに新しい意味の世界を付与する‘

そして

‘その世界を通して、世の中の事象について想像をめぐらす‘

それが僕の風景彫刻における意味だ


風景と一言に言っても、様々な風景がある。
自然なのか、あるワンシーンなのか、遠いのか、近いのか、

現実の空間の眼に見える要素はものすごくたくさんある。
おそらく人はその眼に見える要素全てを把握しているわけではない
これは見慣れた自分の部屋であってもそうだ

その一つ一つの要素を分解し、考察する事によって、きっと今まで気づかなかったような事柄が見えてくるはずだ。
そこから要素の選択をし、再構築する。

きっとその風景に隠された。いや見えていなかった「何か」が見えてくるはずだ


こーして文章にまとめてみると、僕の風景彫刻というのはまるで探偵みたいだ

そーいえば中学の頃、道端に落ちているゴミとかを見て、そのささいな情報からそのゴミがその場所にいたるまでを推理?して考えるという一人遊びをずっとしていた

その一人遊びを彫刻という世界の中でやりたいのかもしれない

これはもう「推理彫刻」とでも呼ぶべきだろうか



2013年2月21日木曜日

円空   時代を越えるもの

少し前に親しい友人と会い。あーでもないこーでもないと話していた。
その会話の中で、その友人は

「自分はこの時代に生まれてくるべきではなかった」

なんて事を言った。

僕は少々カチンときて

「何を言ってるんだ!こんな時代もあんな時代も無い!生まれてきたこの時代がお前の時代じゃ!遠い昔のあの感じィーーーとか、もっと未来のこんな感じィーーーとか言ってんじゃないわ!たわけ!

そんな事言うのは、今、自分の目の前にある、やらなあかん事とか、乗り越えなあかん事を見ないふりしてるだけやわボケカス!

何か今の時代と自分の歯車が合ってないと感じるのは自分に何かが足りてないか、世の中を見る視点が偏り過ぎてるだけやわ!

どんな時代も人間なんてそんな変わらん!
メディアが「流行」とか言って変わってるように見せてるだけや

いつの時代も人間が求めている美しいとか嬉しいとか悲しいとかそういう心は一緒やわ!
解ったか!あほんだら!」

なんて勢い余って言ってしまったが、ホントにそう思っている。

「円空」が僕は好きだ。最近も東京国立美術館で展示があって見てきた。
そこではめったに見れない秘仏があってその純粋なカタチに心から美しいと思った

はっきし言って円空さんは彫刻が下手だ。カタチなんてほんとに大した事ないし、眼鼻口なんてお前これ5秒でピっピっピってやっただけやろ。。。裏なんぞ鉈で一割したそのまんまやし。もうちょっと彫ったら?って思う。

だがしかし、僕は円空が好きだ。いやみんな好きだ。
つまりそんなカタチがどーとか眼鼻口がどーとかではないのだ。
円空さんは死ぬまでに12万体の仏を彫ったと言われる。
何故かっていうと人々の祈りのためだ救いのためだ

だから円空仏はみんな笑っている

それが江戸時代から現代まで人々の心を打ち続けている。

そーいう事だ。人々の心に残り、大切に大切にされていくものは時代なんて関係ない
表面上の流行に翻弄されて消費されて忘れ去られていくような生き方をしてはいけない。

まーしかし確かに現代という時代は必要ない情報がいやでも眼に入ってくるし、その情報の渦に簡単に飲み込まれる事もある

だから、そのカオスな中でも自分の大切にしてる気持ち、価値観、美意識を強く持たないとだめだ、というか、いくら多くの情報があっても結局、自分の中に残るのはその意識に通ずるものだと思う


ちなみに円空さんは岐阜の人だ。岐阜の洞戸に円空記念館がある。そして郡上や高山には道を歩けば円空にぶつかると言えるほど円空がある。

僕が木を彫っているのも何かしらの「縁」ならぬ「円」なのかもしれん



2013年2月18日月曜日

ポリリズム

ポリリズム=ポリ(複数)のリズムという意味で違うテンポのリズムが重なっているリズムである
主にアフリカ音楽に見られる、リズムを合わせる事になれている我々にはちょっとずれて聞こえるような音である

しかしながらそのリズムは3重4重と幾重にも重なりとてつもなく複雑な構造を持っている

僕の友人に「ムビラ」という親指ピアノの王様と言われる楽器をやっている人がいる
その楽器には指ではじいて音を出すピアノの部分があり、その周りにビールの栓がたくさんついていて、音をはじくたびにそのビール栓がガシャガシャと鳴り、アフリカの街の雑踏のような。森の音のような不思議な音が出る。
またムビラも合奏が基本としてあり、ここにも一種のポリリズムが用いられたりする。

ムビラの演奏を聴くと不思議な空間に包まれ何だか異空間へワープするような感覚になる
聞いた事が無い人は是非一度は聞いてみてもらいたい音だ
ちなみに僕の友人は以前は「チョコリンガーズ」という3人組だったが、今は「ニューアース」という2人組で京都を拠点に全国各地で活動している。


アフリカの文化は本当に独特の進化を遂げていて非常に興味深い

アフリカ彫刻の立体感というのも変わった構造や形をしている。


アフリカの人々は「神や自然に対する意識」そのものを彫刻のカタチとして変換している、そのため実際の人体や動物の形、プロポーションを意識しているのではない。

このようなカタチをヨーロッパのリアリズムを元にした彫刻観念から見てはいけない、カタチを構成する上での根源が全く違う。

しかしながらそのカタチは純粋な思いから生まれているからか、人間の意識の深いところに突き刺さるものがあり熱のようなチカラ強さを感じる。


またアフリカ彫刻にもポリリズムのような複雑な構造が含まれている。
頭、腕、体、足、それぞれが別個のリズムを持ち、それが全体として一つの音楽を奏でている

この構築のされ方は、西洋彫刻に見られる、全ての部分が、流れるような一体感を持ちハーモニーを奏でる彫刻の構築のされ方とは別個のものだ


カタチの本質というのは、その表面的なあり方ではない

何を思い、何を目指し、何を伝えようとしているのか、、、、、
そこの部分が人の心に伝わる核心を生むのである


2013年2月15日金曜日

荒川修作  天命反転

岐阜の養老というところに「養老天命反転地」という摩訶不思議な公園がある。
僕の住んでるとこから車で1時間ほどのとこである

ここは、建築家、思想化、芸術家。。。etcと色々な呼ばれ方をしている「荒川修作」の作品である

荒川修作は人間の身体の在り方を説き続けた人物である。

養老天命反転地にはほぼ平らな場所が無い。グネグネと曲がりくねった道があったり、迷路のような家があったり天井に椅子や机や鏡が張り付いていたりと、いわゆるマトモな場所は一つも無い。

しかし、これには荒川修作の意図がある。

彼は縄文時代のような人間の在り方に人の身体の本質があると考えていた。
テクノロジーが発達し、仮想現実の中で生活のほとんどができてしまうような現代のあり方によって、元よりあった人間の身体的可能性は虚弱化し続けている。
その腐りきった現代人のあり方を見直すために、生命の方向性を反転させるために、建築という方法を使い、嫌でも身体のあり方に人間の意識を向かわせようとしたのである

また東京の三鷹にも彼の作品がある「三鷹天命反転住宅」である

ここもまた彼による身体のあり方を見直すための装置とも言える建築物である


僕が養老天命反転地へ初めて行ったのは、まだ小学生くらいの時で、もちろん荒川修作の事など知らず、岐阜にヘンテコな公園ができたらしいから行ってみようということで家族で行ったのである。
確かに変な公園で、小さな万里の頂上みたいなのがあったり迷路のような庭があったりと、子供ながらに危ないとこだなーと思いつつもそこそこ楽しんだような気がする。
そして確か、けっこうな筋肉痛になった気がする。。。。

荒川修作は人間の身体のあり方を確実に変えるべきであって、今在る街、道路、その他もろもろの建築物は全て爆破して、新しい身体を活性化させるような建築構造に変え、人間らしい生き方を取り戻すべきだというもの凄い強い意思を持ち自分を信じきっていた。

その信じるチカラは本当に凄いと思う。少々考え方がいきすぎているような気がしないでもないし、彼の本やインタビュー等の言葉を見ると、もう何を言ってるのか意味不明すぎるとこがある。
が、その言葉や単語に捉われずに感覚的にみてると、彼の言う身体の新しいあり方という思想に対して、うなずけるところもある。

また生前の荒川修作のぶっ飛んだ発言は非常に記憶に残る激しさであった。
気になる方はこちらをどうぞhttp://matome.naver.jp/odai/2134369109216045701

岡本太郎のような、ある種、いきすぎた熱量を持って人々に訴えかけるというのは「伝える」という事柄において非常に重要な事であり、またその意思や思いを実現していったという事実において、とても勇気をもらえる人である。

そのような方の作品が僕の生まれ育った岐阜にあるというのは、嬉しい事だ

2013年2月14日木曜日

存在の認識と関係性ーーーヘンリーダーガ

もしこの世界に自分以外誰もいなかったら、何もなかったら、自分は自分の存在を認識する事ができないんじゃあないだろうか。。。

自分の存在というのは関係性によってなりたっていると思う

誰かとはなす。眼を合わせる。触れる。衝突する。分かり合う....

そのような関係の中で自分の存在というのを認識する事ができる


僕は都合上、ほとんど誰とも会わずに、話さずに、一人きりで作品制作に向かう事が多い
一つの場所で朝、昼、晩を幾度となく過ごすと、今日も昨日も無くなっていく、自分の存在というモノはその繰り返しのループの中に溶けて無くなってく。

その反面、生み出される作品の存在が強くなっていく。作品を生み出すその空間には自分はもういないのだ。

あるのは、日に日に存在感を増していく作品達。

さすがに、この状態が2週間なり3週間なり続くとなんというか精神と身体のバランスがおかしくなってくる

それで、場所を変えてみたり、誰かと会ってみたりする。
そして他人という別の存在と相対すると、少しづつ自分の存在が戻ってくる。日常に色がついてくる。

その繰り返しだ。

以前も少し取り上げたがヘンリーダーガという人物の気持ちが僕は少し分かる。
彼は一生、友達を作ることも無く。女性と関係を持つ事も無く。日常の時間の流れに溶けて自分だけの世界に入り込んで、その世界でずっと生き、15000ページにおよぶ物語を書き、そして死んでいった。

彼は実は幸福だったんじゃないだろうか




彼の物語の中で現実世界のなによりも存在感を持った、不思議な仲間達の中でその世界を構築する者として存在し続けた

結局彼が死んでから全ての作品が発見され、今現代で注目されている。。。


僕は確実に彼のようには生きれないし、その生き方を幸福だとも思えない。
がしかし、モノ造りを志すモノ、自分の世界の中で何かを構築しようとする者にとっては彼の在り方というのは繋がるところ、解るとこが必ずあると思う

セレンディピティ

ある瞬間、何かをひらめいたり、ずーーーっと欲していたものがある日突然現れる。というような事がある。この現象をセレンディピティというらしい

例えばあるテーマについて、バッチシくるようなアイデアを探しているとする、
僕らは生きてる中で膨大な情報を得る。その膨大さにほとんどは頭の奥底の引き出しにしまわれていて、普段は出てこない、しかしある目的に対して求め続けていると、ある時その引き出しからバッチシの答えが見つかる。

・これは内側からのセレンディピティ。

またそのアイデアが思い着かなくて、ふらふらと散歩をして、ふとした瞬間にある風景の中にその答えを見つける。

・これは外側からのセレンディピティ。

しかしその答えを見つけるのには、「気づく」というのが大事
ぼーーっとしているとすぐ目の前に現れている答えやアイデアに気づかないで通りすぎてしまう・・

今、自分が求めているもの。探しているもの。それに対して意識を持ってアンテナを張り続けている事が大切なのだ

今、自分はどこにいて、何をしようとしていて、どこへ行きたくて、どうしたいのか。。
それを考え続ける事。求め続ける事。そしてとりあえず何か行動を起こしてみる事。

道が無いなんて事は無い。何にも無いなんて事も無い。

それは気づいてないだけ。見えてないだけ。

空間の中のパズルのピース

僕の家の近くには長良川という美しい川が流れていて、その河原に石を拾いに行く事がある。
その河原には数え切れない程の小石があって、そこから自分がおもしろい!と思う石を探すのだ。

僕にとっては宝探しみたいな感覚でとても楽しいんだけど、周りから見たらどうなんだろう?
ただの変な人と見えるのかもしれない。笑

これでもない、あれでもないと探していると、圧倒的な存在感というか何とも言えない良いカタチをした石に出会う事がある。

この感覚というのは何だろう?
こんなにもたくさんのカタチがあるのにその中で光ってみえる良いカタチというのは何だろうか?
。。。

こんな風に考えてみた。

僕らのいるこの空間には実は眼には見えないパズルのピースのような穴が空いていて、そのピースのカタチと一致した時、そのモノに対して美しい!おもしろい!という感情が生まれるのだ。

カタチを求めて生きてる人はそのピースに合うカタチを無意識のうちに探してるのだ
。。。


そしてほとんど誰が見ても良いカタチと思えるモノがこの世には存在する


楽茶碗。楽長次郎作の黒楽茶碗。写真では伝わらないかもしれないが、本物を眼の前にすると、その茶碗のカタチ、内側、色、たたずまい、すべてに宇宙を感じる。
楽茶碗は手日練という轆轤を使わず、手のひらの中で茶碗のカタチを作っていく。

ばっちし空間のパズルのピースにはまった、いーーーーーいカタチである

そして不思議な事にこのカタチは万人に伝わる
いや少なくとも日本人の感性には、とりわけモノ造りを好む者には電撃のように伝わる。

自分も彫刻をしながら良いカタチを探すのだが、その良いカタチが生まれる瞬間というのは本当にふいに訪れる。その瞬間というのは何とも言い表しがたく。だから空間のパズルのピースにはまったんだ!と言うのが一番しっくりくるような気がする。

しかし楽茶碗のような「茶碗」なのに茶碗ではない宇宙のような感覚、茶碗を越えた「何か」を感じてしまうカタチというのは本当に不思議で魅力的だ。